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昭和44年10月23日 朝の御理解



 御理解 第99節
 『無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。』

 真がなければ人は助からんと、言うことはもちろん真がなければ、人どころではない自分自身すら助からないのである。これはあの、おかげを受けと言う事じゃないと思うですよね。自分が助かる、自分の心が助かるとい事。真がなからなければ、自分自身助かることはできん。これは神様が許されるものですから、ね、助かるという事は、神様から許されて、心の中に、安心を頂く、喜びを頂く。
 喜びを受けよう安心を得ようと、いくら頑張ったところで自分ではできません、神様が許されるものですから。ですからその神様の心に適う、いわゆる機感に適う神様の機感に適う在り方の、その第一として真という事が言われます。ですからその真がなければもちろん人は助からん。非常にここは取次ぎ者に対する御理解だと思いますがね。けれどもこれは皆がやっぱ頂かなくてはならんと。助からん、また自分自身も助からん。
 自分自身も助かる為に、なら真を追求していくという事が、まぁ信心であり、同時にこの例えばこの百節に繋がるですね。金光大神は家繁盛、子孫繁盛の道を教えるとこう仰るでしょ。ですからその家繁盛子孫繁盛は、誰でもが願っておる。けれどもその道を教えると仰るその道を習おうとしない。道を行じようとしない。その道こそが真なんです。ね。親の代より子の代子の代よりも孫の代と、いわゆる家繁盛子孫繁盛を願わない者はないのですけれどもです、ね。
 その真を追求していこうとしない。けれどもまぁ皆んなその真って言うのは、実際持ってるんだ。ね。それを私共がよう出さん。ね、その真をいよいよ持ち続けよう、またその真をいよいよ育てようとしない。ここに学者が身を食うというような言葉を使ってあります。ね。と言う事はそのう学問が真を食うというふうに、ことになってくるですね。真はあるんだけれども、なまじっかな学問がその真というものを、覆うてしまうとか、学問が真を包んでしまうとかね。
 学問と言うくらいだから、才覚または力ぁ財産と言った様なものと言ってもいいでしょう。ね。財産があるから人が助かるという事じゃない。学問があるから人が助かるというものでもないように、ね、学者が身を食うとそれを、自分がしておるその学問というものに頼る。だから学問で身を立てよう。学問で身が立つと思っておる。だから真はなかってもいいように思うわけです。ね。
 だからこれは学者はだけれど、おかげが頂けるというのじゃなくですね、問題はその身に付けた学問なら学問、財産なら財産そういうものが、ね、愈々真を踏んで真によって生かされる工夫をすりゃ、愈々鬼に金棒なんですね実を言うと。なまじっかな学問が身を食う、いうなら身を滅ぼすことがある。頭が良い頭が良いという事が、却ってその人を不孝にする。だからここでは頭が良いからというて人が助かるわけじゃない。
 私の様に頭の悪いもんでも、人が助かるというふうにも言えるわけなんです。真があれば。ね。いうならおかげが受けれる。そこで私その真というのは誰しもが持っておるものだと大体はね。けれどもその真が出せれない。昨夜ちょうど御祈念にかからして頂く、夜の御祈念にかからして貰う一時間ばっかり前だったか、善導寺の久保山さんがお導きして参ってこられました。
 その隣におられます方、その方がまだ五十今が五十一歳ですから、五十歳て言うとられましたから五十歳だと( ? )さんあたりはよう知っとられます。私が( ? )その方が急にですね、この脳軟化症、ね、中風半身不随になられましてね。ちょうど勤めに出ておられて、そこでそういう突発的な病気になられまして、難しかろうとその医者がいわれるほどしに、ね、ま、難症だったわけです。
 隣におられます久保山さんが、それこそいち早くお届に出てみえられましてね、その相手の方はご信心はあんなさらんですけども、とてもいいお方。しかもいうならご普請がちょうど、もうできかかろうとしておるときやった。もうやんがてまたほとんどできたっちゅう時分だったんです。ですからまぁそれであの(    ?   )で、とてももう一度は助かって頂かなならんからと言うて、ずっとそのお届けがございました。
 でその御神米をすぐその門内に馬場さんと申しますが、馬場さんのお宅にもって行かれまして、向こうも大変それを喜ばれて、ずうっと枕の下に、敷かれましてね、で現在でもそれをお守り様と思うて、でそのこげんして頂いております、て言うて昨日もそれを言うておられましたが、おかげを頂いてからほとんど全快のおかげを頂いて、また勤めに復帰され、それでこの様な所にそのよし一遍お礼参拝さして頂きたいから、連れて参ってくれと言われて、まぁ昨日は、お礼参拝をされたわけです。
 これは久保山さんに、あげんして貰ったから、義理とか人情と言った様なものではなくて、ほんとに矢張り、私はこんだやっぱり神様の御利益を頂いたと思いますと言ってから、昨日言うとられます。本当になんか良いお方のような感じでした。初めて会いました。ね、私はあのそういう様にですね、あのうご恩を受けた事に対するというか、に対するお礼の心、それが真だと思うです。
 ですからお礼の心って言ったようなものは、誰でもあるわけなんです。ね、なにかご迷惑かけたりなんかするとどうもすみません、有り難うございましたというその心が真なんです。だから、そういう心は誰しもあるんです。あるけれどならそれをです、愈々育てようとしない。ね。昨日は原さんところの娘さん岩井千恵子さん、昼、昨日が丁度結婚記念日に当たりますと、というて、まぁそれこそ、折り目正しいと言うかね。
 ああそれぞれに、それのお礼のお供えなんかも整えて、結婚記念日のお礼のお届がありました。言うならもうご承知のようにそうですかね、連れ添われたのは足掛け三年ぐらいじゃなかったでしょうか。良一君ができて一年ぐらい目には、もう亡くなっておられますから、ね。御神縁を頂いて結婚しそして子供ができて、そしてもうこれからほんとに親子3人の幸せな生活が、ま始められてまぁ言うなら有頂天になるほどに。
有り難い幸せな生活、入らせて頂いたのも束の間亡くなられた。交通事故で亡くなられるという、まぁ悲しい事が起こった。ですから本当言うたら普通から言うたらですけどね、お礼なんか、ちゅうことにゃならん。ほんとに言うなら。神様をどっちかと言うなら恨みたいような、と言うのが人情じゃなかろうかと思う。ただそこがおかげを頂いて、日頃信心の稽古さして頂いておるから、その事に対して、ね。
まぁその御礼の内容は色々でありましょう。そりゃ私私もそりゃ分かりませんけれども、とにかく、結婚記念日だしかもそりゃ亡くなられたご主人ですね、それでもやはりお礼のお届があっております。
  (いきなり音声が変わる)
 これなんかもうちょっと高度な、私は真だと思いますね。これは信心を段々わからして頂いたから、それができた。信心が分かってなかったらむしろ、例えば神様が信心しとっても、神様まさか、まさかおらんて言うか、おらんのが当たり前のような感じがする。なかにあって矢張り、その事をお礼を言うておられる。ね、もう真がやはりそれだけは育っておるわけなんです。
 そこで金光大神が教えて下さる、家繁盛子孫繁盛の道と言う事はです、人間が幸せになる道だという事ですね。金が出来ましたものが出来ましたと、是を子供に孫に譲ってやる事ができると、ここで言うのはそう言う意味じゃないと思うですね。家繁盛子孫繁盛の道と言うのは、人間の本当の幸せの土台でありその幸せの道だという事だ。勿論その幸せには、ね、家も立派にならなきゃならん、子孫も段々増えていかなければならん、経済の面にも健康の面にも、私はおかげを頂くというそういう事だとこう思う。ね。
 でそういう道を金光大神は教えるのじゃと、こう言うておられます。ね。ですから家繁盛子孫繁盛に、いわゆる人間の幸せになれれる道を教えるのじゃと仰るのだから、その道を分かりその道を行じなければいけない筈なのに、それをよう行じようとしない。これじゃなら子孫繁盛家繁盛ばっかり願ったって、商売繁盛ばっかり願ったって、ね。一回もんばっかり願ったって、それは本当な事じゃない。
 そこで私どもがうんなら、そういう繁盛の道と言うか、ね、そういう本当に人間幸せになれれる真の道と言うものを、教えて頂くのですからその教えて頂くその事を私共が愈々稽古して体験の上にもそれを分からして貰い、今日私が頂くならそのお礼心と言うその心が真だとこう言う。まあだ真ってま色々にありましょう、いろんな角度から頂けましょうけれど、今日今日ここで頂くのはお礼の心とお礼を言う心が真なんだと。
 ところがもう一遍お礼参りしたけん済んだと言う様なそれがですね、そこで折角真の心が出たのに、それを育てようとしない所に私共の、子孫繁盛家繁盛の幸せの元になって行かん事になるんじゃないでしょうかね。だから難しいと言やあそりゃ育てるとが難しい、又楽しいと言やあそれを育てるという事が楽しいのである信心は。だから信心ちゃ難しかぁちゅうたらだからもうほんと、難しい事になってくる。ね、
 けれども楽しいって言ったら、こんな楽しい事はない。ね、だからそれを育てる楽しみと言うものがねやはり頂けなきゃいかん。御礼心感謝の心っていうものを育てる。そこになら工夫がいる。育てるためのいうならば水もね例えば、ひとつの草花なら草花に致しましても、ね、お野菜ならお野菜に致しましても、ね、育てるという事の上に色々な虫がついたら取りもしなければならんだろう。
 水を欲しがっとるときには、水も与えなければならんだろう。同時に肥料もたゆまず、それに送ってやらなきゃならんだろう、ね。だからそのお礼心って言うがそれが真だ。でその真はみんなが持ってるけどそれを育てるか、育てないかっていうことが子孫繁盛、人間の真実の幸せに繋がるわけです。ね、だからお礼参りをしたけんそれで済んだということでは、だからその本当の事になって来ないことが分ります。
 そこでなら肥料を施す、施すという事がどういう事か、水を与えると言う事はどう言う事か、虫を取るという事はどういう事かと、と言うと、結局どういう事になるかと言うと、『信心は日々の改まりが第一じゃ』と仰る。自分の心の中に改まらなければ成らない様なものがある。それが真を蝕んでしまう。ね。だからやはりそのそこでなら改まる、言わばここに改まっていく楽しみといったようなものが、改まる術を教えてもらうという事がまた楽しいものになってくる、有り難いものになってくる。
 そこもやっぱり、難しいと言やあ難しい。ねぇ。同時にならそれはまたいよいよ磨きにかけていこうと言う。愈々それが育つように、それに合うた肥料を施して行こうと言う様な働きというものがね、なからなきゃならんわけです。真が育つ育つ楽しみ喜びを分からして頂くところまでが、信心は一人前だということになりますね。そこをまたのご理解にあれもおかげであった、是もおかげであったと分かる様になると、本当の信者じゃと、真の信者じゃと仰るね。
 あれもおかげであった、これもおかげであったと分かる様になると真の信者じゃと。いわゆる真が愈々育って、そこでうんならあれもおかげであった、是もおかげであったと言う事が、ならどう言う事かと言うとです、ね、その昨日お礼参拝して見えられました、その馬場さんの場合は、自分の心の中にある真がです、信心はないけども隣の久保山さんに対する所のその真心がです、それを有り難いと感謝して、ね。
 それをどうでもお礼参拝をしたいと、こう言う事になった。だからそういうお礼を言うその心が、を育てることが信心だと分かる所から、信心が出来て来る様になる。だからこれはまぁ育つか育たないか分からん、しかし誰しも持っておるという意味でその、馬場さんの、ね、初めてお参りされた方のことをまぁ例に取りました。そして信心が段々分からして頂くところからです、それを例えばそういう不幸な事に直面致しましてもですね、千恵子さんの場合です、ね、その事にお礼が言えれるということ、ね。
 その事にお礼が言えれると言う事はもう言うならば、その真が育った。お礼お礼心が育った。本当いうなら神様を恨みたい様な所、言うならばあれもやっぱりおかげじゃったと言う事が分かってきたっちゅうことなんです。欲を言やあ限りがないのだけれども、例えば三年間でも楽しゅう生活させて頂いた、おかげで子供だま子供までなさして頂いた。悲しい事だったけれども、よくよく分かると、これも御神愛のなかであると言う様に段々分かって来たから、私はお礼と言う事になって来たんじゃいかと、ね。
 少こしばっかり、あれもおかげであったと言う事が分かって来た。ね、本当の信者じゃという、その本当の信者の言うならば、段階に進んだわけですね。そこで、うんなら、今度はこれもおかげであったと分かるようにならなきゃいかん。あれもおかげであったと言うだけじゃなくて、これもおかげあると分かる。これ、現実の問題。ね。現在どのような、例えばそれこそ、難儀なら難儀、嫌な思いと言った様な腹立たしい事が、様々にあろう。けれどもね、これもやはりおかげであると分かる。ね。
 それが、真が愈々育っていっておる姿である。ですからあれもおかげであった、これもおかげであった、わかるようになると本当の信者じゃということがです、真の信者じゃということがです、ね、いよいよ真が育ってきたということになります。そのようにね、真が育って行く、しかもそれが育って行くということが楽しみとか、ね、それが段々ありがたいと。信心がない昔だったらどうだろう。
こういうことが起こったら、それこそもうそれこそ、目の前が真っ暗うなるような思いをするようなことがあっておっても、信心さして頂くようになって、ほんとのことが分からして頂くようになったら、それに対してお礼を申し上げるような心すらが生まれておるという、そのお礼を申す心が真なんだ。なるほどこういう境地に段々ならせて頂いたら、もう家繁盛、子孫繁盛はもう、絶対なものだと思いますね。
 金光大神はそのような道をです、様々な角度から示しとって下さる。教えておって下さるわけなんです。どうでも真がなければ人は助からん。ということは真がなからなければ、人どころか自分自身が助からん。なら真とは何ぞやと。今日私はそうそういう意味でのことは、初めて頂いておるので、私自身も初めてなんですから、皆さんここんところを、良く覚えてくださいね。真とはお礼を言う心だということ。
 だからそういうお礼を言う心なら、誰しもが持っておるんでやっぱり。ね、だから問題はそれを育てるか育てないかと言うところが、問題なんです。ね、信心はあってもそれを育てようとしない人もたくさんあるんです。気が付かない人もある。なまじっかな力量やら、なまじっかな学問が、却ってその真を暗いものにしたり、それをいや身を食うという、その真をを荒らしてしまうわけなんです。ね。
 ですから、それを荒らすものの正体と言うものは何かと言うと、私どもの心の中にある改まらなければならない事柄だ、信心は日々の改まりが第一と、第一にあげておられるわけも分かります。折角信心して喜びの芽が出る、ね。その喜びの芽が惜しい事に、花も咲かないままにしおれてしまう。または枯れてしまう。これは惜しい事である。今日はこの99節をねこのそういうふうに一つ頂いて頂きたい。
 100節に繋がる家繁盛、子孫繁盛の道を希う者は、もう皆がみんなそれを願わん者はないのである。なら願うからには子孫繁盛の道を一つ体得しなければならない。その子孫繁盛の道とは所謂真の道だということ。なら真の道とはどう言う事かと言うと、私共がね感謝の心というものを持っておる誰しもが。お礼を言うお礼心なのだ。だから誰しも持っておるからなら誰しも子孫繁盛のおかげを、頂かれるかって言うとそうでない所にです、そのお礼心というものを愈々育てて行かなければならん。
 それを育てる事の精進がそのまま信心だと。信心とはそれなんだとそして究極の所はどこへ行くかというと、あれもおかげであった是もおかげであったと、本当に分かる信心にならなければならん事になる。だからあれもおかげであったという事はこうですよね。例えば千恵子さんの場合はこの分かっておるからお礼になっておる訳です。実際いたいもんにもう千恵子さんが一生の内の一番悲しい事であろうかとも私は思うのです。
 その事にすら過去の三年なら、その過去のその事をです、普通で言うなら神様を恨みたいような事柄に対してでも、あれもおかげであったとこう感じてきておる。ね。けどもうまあ、これもおかげであったとはまだ思い切っていない訳なんです。そこに是からの千恵子さんの信心がある訳なんだ。現実の問題、ねぇ、日々次々と起きてくる問題。その問題に、ね、取り組む姿勢というものがですね。
 お礼を言わなければならない、それを対象に全部ならなければならん。ね、それがはがいいことじゃ情けないことじゃって言っとるのが、一年経ち二年経ちしていきよるとですね、信心頂きよるとです。はぁやっぱうまくいきよるとは分かるとは分かるんです、所謂あれもおかげであったという事は。けれどもそれではねやはり自分の心の中にいつも苦労、苦しいのであり。
 不平不足の心というものがやはり出て来るでしょう。だからどうでもそれを即おかげと感じれれる信心を、頂かにゃならんという事が分かる。ね、そこに私人間の本当人を助けられる、自分自身が助かる事になるのです。あれもおかげであった、是もおかげであったと言う中に自分があるのですから、全てがおかげの中にあるのですから、全てが神愛の中に包まれておる私である事が分かるのですから。
 いつもが、お礼を申し上げる心が、あるわけ。そのようにして真が育って行く。ね。そういう私は道を、真の道だと。金光大神はそのような道を教えておって下さる。その道こそがです、家繁盛子孫繁盛に繋がる。人間真実の幸せ、幸福に繋がることを思わして頂く時です、いよいよそのお礼心を強いものに、広いものに育てていかなければならんことを、痛感いたしますですね。
   どうぞ。